戦いの街バターリャにある勝利の聖母マリア修道院

リスボンからのオプショナルツアーでバターリャを訪れた。ガイドさんの説明を聞きながら、立派であり、一部不可思議な構築物に、数多くの歴史の変遷を感じた。

14世紀の終わりごろ、ポルトガルでは王位の継承戦争が起こっていた。王位を奪おうとする隣国(現スペイン)のカスティーリャ王と、ポルトガルの王族ジョアン1世が争った結果、アルジュバロータの戦いでジョアン1世が勝利し、王位を正式に継ぐこととなった。

ジョアン1世は勝利を記念して、この地に聖母マリアのための修道院を作り、周囲に街を作った。街は「戦闘」を意味するバターリャと名付けられた。そして修道院は 「勝利の聖母マリア修道院」が正式名。

街の名前に直接「戦い」と名付けるほど、その勝利はポルトガルにとって大きなことだった。

バターリャ修道院の入口のアーチ・ヴォールト

バターリャ修道院はアルジュバロータの戦いの勝利のあとから着工したが、建設が長引いたため様々な建築様式で建設が進められることとなった。まず、フランスで始められた技巧的な装飾が特色のレイヨナン・ゴシックと、イギリス伝統の垂直様式を組み込み、修道院の計画をたてた。

その後、ゴシックの一様式である炎をモチーフとしたフランボワイヤン式を採用。この頃に、ポルトガルの修道院では初めてステンドグラスが取り付けられた。

大航海時代の幕開けとも重なって、自分達の国にないものを取り入れようとする精神がこの後も続いていくことになる。

その後も修道院建設が進められるが、担当した建築家によって建築様式が変わっていった。そして15世紀後半からはマヌエル様式の装飾を手掛けられた。

マヌエル様式は海や船をモチーフとした装飾が特徴で、国王マヌエル1世がポルトガルのすべての建築物に取り入れるよう命令を出した王室御用達の様式だった。

身廊

その後、最先端のルネサンス様式で増築された。イタリアのフィレンツェで発生したルネサンス様式は幾何学的なデザインが特徴的で、王室の霊廟として建築中だった「未完の礼拝堂」と呼ばれている建物などに意匠されている。

この段階で現在みられる修道院の形が整うことになった。建設開始から2世紀が経ち、なんとその間には7人の王と15人の建築家がこの修道院建設に携わったことになった。

16世紀半ば、バターリャ修道院は建築工事の中断が決定した。並行して工事していたジェロニモス修道院の建築に力をいれるための、国王ジョアン3世の判断といわれている。これ以後、バターリャ修道院は未完成のまま歳月を過ごすことになった。

建設が中断したままバターリャ修道院でのドミニコ修道会の活動は続いた。その後、2世紀が経った1755年にリスボン大地震が発生し、近郊のバターリャ修道院でも被害がでた。

1810年にはフランス革命の余波がイベリア半島にも訪れた。半島戦争と呼ばれる戦争で侵攻してきたフランス軍による略奪、破壊によって更なる被害を受 けた。

歴史の大きな波にさらされ、守るべき修道士もいなくなり、廃墟となっていたバターリャ修道院ですが、1840年に国王フェルナンド2世が修復を宣言した。

1910年に王政が倒れ、共和国となってからも20世紀前半まで修復が続けられた。1980年には博物館に転用され、建物自体が文化財として扱われるようになった。

長年の風雨にさらされ黄色く変色した石灰岩の壁が、ポルトガルの激動の歴史を感じさせる。

※wondertripを参考にさせていただきましたhttps://wondertrip.jp/zekkei/43757.html

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