マッキントッシュSE30回想

80年代後半マッキントッシュの伝説機を持っていた自慢話を書いてみたい。

当時の日本はNECの全盛期だった。78とか98とか独占している威張り方を苦々しく思っていたぼくは、すごく背伸びをしてでも違うパソコンが欲しかった。当時も家族構成は、カミさんと娘二人の四人だった。

娘は小学校2年生と保育園の年中で、親バカなぼくとしては、キッドピックスというお絵描きソフトや音楽MIDIを使わせたくて、当時の給料からみてとってもとっても高額だったがマッキントッシュを購入した。

85年から高蔵寺ニュータウンに住んでいた。信濃路で愛知県の県境だった。5年住んで、ふとした偶然から土地を買った。会社に近い処はバブル時代の後期で高かった。探していたら、山を越えた岐阜県多治見市に県住宅生協の斡旋していた80坪の土地を見つけた。ただし1年以内に建築することが条件だった。某有名ハウスを選び、図面を検討し約1年かけて完成した。

上の娘が小学校に入る3月に引っ越した。その前に、車がないと生活できない環境に備え運転免許を取っていた妻も岐阜の銀行に働きに出た。住んだ多治見市は、殆どの母親が働く街で、保育園も多かった。まだ若かった夫婦に貯金は無かった。でも。初めのパソコンには拘って贅を尽くした。

(「週刊アスキー」より拝借)

SE30は80年代の初代MACの伝統を引き継いでいる9インチモノクロモニター一体型で、コンパクトさと拡張性を兼ね備えており、その後に登場したClassicIIなどと比べ、遙かに優秀で根強い人気をもっていた。その頃出ていた3機種のうちもっとも安いClassicは力不足だったので見送った。

CPUに16MHzのクロック周波数で動作する68030を採用してたので、初代MACからSEまでの動作速度の壁を破り、2倍以上の処理能力を備えていました。それと32ビットとなっていたこともあり、単純計算では4倍の転送能力を備え、素人には十分すぎる速さだった。

モノクロでも十分だと思いながらも、カラーディスプレイとカラー専用ボードも揃えたので80万円くらいかかった。しかし、家族四人がパソコン通信やお絵描きやMIDIなどで使い、殆ど取り合い状態で稼働は高かった。

みんなが笑顔の良き想い出だったが、度重なる転居を経て、家から消えてしまった。楽しく使っていた娘たちもすっかり大人になって其々の家族と過ごしている。

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#fav Each Otaki, Law&Order, Richard Curtis screenwriter famous for Love Actually, boarding Star Alliance, now living at Osaka-city in Japan, drawing biginner, swimming slowly, playing cherry jazz piano on leave and loving two daughters, born at Ise-city, Japanese.