ドクター東海、そして名松線

いくつになっても列車は好きだ。ましてや見たこともない車輌だと近くで見たくなる。

いま母が津市のホームに居るので弟と交代で隔週出かけている。ぼくは名古屋で近鉄特急に乗り換え、津で降りる。帰りは名古屋まで停まらないアーバンライナーに乗ることが多い。むかしは鶴橋を出たら名古屋まで停まらなくて「名阪ノンストップ」と呼ばれていたが、運転開始から半世紀を超えた2012年頃に津だけ停まるようになっている。

昨年の秋、特急に乗ろうと近鉄津駅の階段を下りた。線路向こうにある名古屋方面へのJRホームに見たことのない車両が停まっていた。急いで階段を上り、JRホームへ移動してその車輛を撮影した。

キヤ95系気動車

車体番号を後でググったところ「ドクター東海」と呼ばれる点検車だと判った。ドクターイエローは何度も見たけどドクター東海は初めて。とてもLUCKYな気分になった。

子供の頃、すぐ近くに国鉄の駅があった。松阪から名松線で二つ目の権現前駅。

奈良県桜井から榛原・名張を通り松阪を結ぶ桜松線が当初の計画だったらしい。しかし1920年代、大阪と伊勢を結ぼうとした今の近鉄に先を越され断念したようだ。

1935年に伊勢奥津まで開通して終点となっていた。子供の頃は鉄道が輸送手段だったせいか権現前駅には引き込み線があり、日通の倉庫もあり、とても活気があった。そこで弟や友達とよく遊んでいたし、家に居て、聞きなれない列車の音がするとあわてて駅まで見に行くのが楽しみだった。

時々、長い連結の団体列車も走っていた。また、年末には伊勢神宮への年越し参りの直通列車もあった。つい先日フェイスブックの「国鉄があった時代」の記事を読んでいたら、国鉄当時「名松線」と「参宮線」は伊勢管理局という部署が管理していた旨が記載されていた。ずいぶん昔の謎を解けた気がした。


(名松線と権現前駅)

しかし輝いていた昭和は終わった。ローカル人口の減少や、車社会への変遷や、利用者減が本数減に繋がる悪循環となり、名松線はどんどん廃れてしまった。そういった環境変化に止めを刺したのが2009年の台風だった。沿線も線路も大きな被害を受けた。被害の大きさとその費用を考えると復旧は難しいと思われていた。

ところが6年半経った2016年なんと名松線が蘇った。地元の声だけではない、とてつもなく大きい力が働いたのだろうと想像するが、英断したJR東海の太っ腹には感心したし、とても感激した。月に一度、田舎の墓掃除をしていると、すぐ傍を1両だけで走る名松線にはいまでも必ず目を向けている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

ABOUTこの記事をかいた人

#fav Each Otaki, Law&Order, Richard Curtis screenwriter famous for Love Actually, boarding Star Alliance, now living at Osaka-city in Japan, drawing biginner, swimming slowly, playing cherry jazz piano on leave and loving two daughters, born at Ise-city, Japanese.