
時々吹く風は強かったが、陽射しは眩しく、ジリジリと照りつける日曜日に天王寺公園に出かけた。改装された大阪市立美術館でゴッホ展が開催されていた。




色彩理論への関心を高めたファン・ゴッホは、色彩を扱う訓練に適していると、それまで積極的に描いてこなかった静物画も手掛けるようになる。1884年の晩秋から初冬にかけて植物の静物画を初めて制作した。本作では、ルナリアと紅葉した数種の葉が組み合わされている。ルナリアは花ではなく、秋になると見られる銀白のさやをつけた様子が描かれている。硬貨のような独特の外観をもつこの植物を、ファン・ゴッホは憂鬱と告別に関連づけていた。

画業の初め、ファン・ゴッホは農民を描く画家になることを目指し、何十点もの習作を重ねた。これらはオランダ時代の代表作《ジャガイモを食べる人々》に結実するが、本作もそのひとつである。この頃、ファン・ゴッホは本から学んだ色彩理論をさまざまなかたちで実践していた。本作においても補色の効果が試みられている。色調が暗いためわかりにくいが、顔や帽子の赤みがかった色調が、衣服など随所に見られる緑とコントラストを生み出すよう配されている。


本作はパリで描かれた作品のひとつで、まだ田舎の趣がのこるモンマルトルの穏やかな風景が捉えられている。

1887年4月










フィンセント・ファン・ゴッホ
の肖像 1886年9月
肩越しにこちらを見る画家を描いた、フィンセントお気に入りの肖像画。サン=レミの療養院からテオに送った手紙では、「ラッセルが描いた僕の肖像を大切に扱ってほしい。僕にとってとても重要なものだ」と頼んでいる。本作の代わりにラッセルに贈られたのは、パリで描いた3足の靴の静物画だと考えられている。ラッセルはオーストラリア出身の画家で、ファン・ゴッホはパリで彼と出会い親しくなり、南仏に移ったあとも交流が続いていた。

タチアオイの咲く庭 1886-90年
見事に咲く、生命力に溢れるタチアオイが主役の作品。フィンセントはクォストの描くタチアオイを高く評価し、南仏で制作している際には、そのように自分もヒマワリを描きたいと考えていた。オーヴェール滞在中の手紙からは、クォストに会いにパリに行き、彼の作品を手に入れようとしていたことがわかっている。本作の裏面には「テオ・ファン・ゴッホへ/私の友人フィンセントがこのうえなく愛するこの絵を」と記されている。

雪のパリ1894年
1893年、2年間のタヒチ滞在から戻ったゴーガンが、パリでアトリエの窓から見える雪景色を描いた作品。陽が差し込み、雪化粧した都会の一角が生き生きと美しく描かれている。本作は兄弟のコレクションではなくヨーに由来する。ゴーガンは南仏アルルでファン・ゴッホと2ヵ月を過ごした。彼は自らの所有であるファン・ゴッホ作品3点について、オランダのヨーに連絡をとって返却を受けた。本作はその感謝の印としてヨーに贈られた作品のひとつとされる。

花源氏夜の梯 1861年
ファン・ゴッホは、新しい表現様式を確立する際に日本美術を参照し、またその思想からも大きな影響を受けた。アルルでは浮世絵をアトリエに飾り、テオに次のように書き送った。「考えてみてほしい。あの日本人たちが僕たちに教えてくれることは、まるで新しい宗教のように思えないだろうか。あれほど質素に自然の中で暮らしている。まるで彼ら自身が野に咲く花のようではないか。僕には、日本美術を学びさえすれば、あのようにもっと幸福で陽気な気分になるはずだと思えるし、それによって教育や慣習に縛られている僕たちでも自然に立ち返ることができるのだ」。

フェリシテ号の浮桟橋
アニエール 1886年
シニャックは新印象派を代表する画家で、ファン・ゴッホとはパリのタンギーの画材店で出会ったという。ふたりはよくパリ近郊のセーヌ川沿いの町に出かけ、ともに制作をした。シニャックの影響を受け、この時期ファン・ゴッホも短い筆触を多用している。本作に見られるように、シニャックは厳格に均一な筆触を用いたわけではない。左側の船の帆や空などは細かいが前景の川はやや大きく、こうした違いが画面に奥行きをもたらしている。

※ゴッホ展公式ウェブサイトより引用させていただきました。



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